昭和49年01月27日 特別奉修委員
今朝から熊谷さんのお届けされる中に、お夢の中に自分の部屋のぐるりに、ずっと正月を使う正月こぶを、ぶら下げておる所を頂いたち言われる。信心生活と言うのはそういう喜びの中に、こぶと言う事は喜びと言う事でしょうが。そういう喜びの中にね、いつもあると言う事が、お互いの目指しでなからなきゃならんです。目的でなからなきゃいけん。それでそんなに嬉しや、喜ばしやと言う様な事ばっかりがあるはずはありませんのですから。結局それとは反対の、普通では喜べない様な事の中にも。
すぐ頭に来たとか傷つけられたとかと言うけれども。本当にそういう中にも即、有り難いという頂けるような心の状態を頂く事です。是は佐田さんが頂いて居られる様に。例えば正月の羽根突きでも。羽根突きが一つも落てんで、ずうっとこうやって突いとるなら、こげな面白い事なかろうと思うです。けれどもまぁ落ちんようにと、一生懸命努力をすると言う事と、時々は落ちると言う事だからこそ、面白いのであります。
だから自分の都合の良いように、思うようにと言う事だけが、有り難いのではなくて、それとは反対の事の場合でも有り難い。喜ばんならんじゃなくてから、有り難いと言う事が分かる信心にならなきゃいけない。この事は有り難いけども、この事は有り難くないと言った様な事であってはならない。そこん所を一つお互い何時もの頂く事ですけれども。改めて、おかげを頂かなきゃならん。それには自分の心というものは、教祖の場合は肉眼をおいて心眼を開けと仰るから。
心の目が開けて来ると、今まで困ったと思うておる事は、有り難いと言う事が分かるのですけれどもね。今日ある方のお届けをさせて貰った。ある方が保証に立ってくれと。けども、あまりの大きな金額だから、僕はそう言う事がとても出来んと、息子さんが言われる。そこでその事をお届けさせてもらったら、例えば一つの木を、木を逆さまにこう持ってる。だから芽が出とるのだけども、芽がみんな坂目に見える訳です。
逆さまに持ってるから。だからもし坂目にどん出たならどうするじゃろうか、引っ掛けられたらどうするじゃろうかと、こう不安がる訳なんです。それは自分が木を自分が心を、反対な方を持ってるから、坂目に見える訳であって。是がこう見えたらこれは是から芽が出るんだという事が分かるんです。だからそれはその事だけではなくて、そういう心の持ち方、気持ちを持ち替えただけで、その事だけではない。
他の事一切が言うならば普通ではイライラしたり、腹を立てなければならなかったりするような時にでも、有り難いとお礼が言えれる事になる訳なんです。心の持ち方を変えるだけで。こういう風に持ってるから、いや言うならば普通の人間心だけで見ておるからであって、自分が神心になる。又は肉眼をおいて心眼を開かせて頂くと、それがまともに見えて来るようになる。
だから普通の人は情けないと言うておる時でも、そういう頂き方が出来る人は有り難涙に暮れておると言う事になる訳なんです。だからそれが信心させて頂く者は幸せであり。そこをお互いが願っておるのですから。必ず喜ばれるってそげん喜ばしい事ばっかりあるはずはない。本当に喜びの中に自分があると言う事は、赤の場合も有り難い白の場合も有り難いという境地を開かなければ、喜びの中に浸ると言う事は出来ない。
熊谷さんのお知らせと言い佐田さんの頂いておられる事と言い。私が只今坂目に見えるという頂き方で自分の気持ちを、まともに持ったらそれはおかげにしか見えない。それが、おかげだけではないその事が安心だけではない。その事の他の全ての事がおかげになって来るんですから。どうでもその一つの事から、本当に信心を体得させて貰う。大きな悟りを開かせて貰わなきゃならんと言う事が分かりますですね。
どうぞ。